常識をぶちこわす(10.01)

常識、日常、当たり前、既成概念、保守、歴史、これらの

旧来のものをぶっ潰す。そのやり方を研究するwww

大真面目である。

しかし、いったい常識とはなんだろうか?

常識:
社会の構成員が有していて当たり前のものとしている価値観、知識、判断力のこと。万人共通感覚、コモンセンス
という考え方が過去にはあったようだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E9%80%9A%E6%84%9F%E8%A6%9A

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アリストテレスは五感に共通的なもうひとつの感覚があって、これが、個別の感覚器官に限定されない知覚を可能にし、それを統合していると考え、これを共通感覚と呼んだ。具体的には、感覚の間の比較、関係づけ、個別の感覚だけには属さない抽象的な性質である、形、大きさ、数などがその対象であると考えられた。

ついで、自然法思想の起源をなし、「自然の光」に照らされた理性的判断は「万人の合意 consensus omnium 」をもたらすと説いたストア派から、Sensus Communis には現在に通じる、人々の間で共通する感覚・判断という意味合いが発生した。とくに、それをうけて、キケロに代表される修辞学の伝統においては、この意味における Sensus Communis が重視された。

13世紀のトマス・アクィナスアリストテレスの意味での共通感覚の規定を受け継いで、彼自身の認識論をより詳細に展開させ、スコラ哲学はそれを受け継いだ。

17世紀のヴィーコやシャフツベリ伯によって、人々の共通の感覚という意味での常識は哲学的に主題化された。

イギリス経験論、およびスコットランド常識学派において、人々が共有する本能的で(健全な)判断能力という意味での常識の概念は重要な位置を占めた。トーマス・リードはその常識の観念を提示するに当たって、しばしばキケロのSensus Communis を引用している。

カントにおいては Sensus Communis は「共同体感覚」という意味合いで規定され、感性的なものの普遍性・伝達可能性を支えるものとされている。

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